ようやく暖かくなったかと思えば、関東は雨が続いて気温も下がり、慌ただしいもんですな。ウグイスの声を聴いてから桜が散るまでの呆気ないこと。さっぱりあっさりしたもんですな。しかし、身体の動きはこってりです。そうです、そんな言い方はありません。
「無」であるという方向は悪くないと我ながら
ひょんなことから『猫の妙術』なんてのを読みまして「やはり『無』だ。
『無』が流行の最先端だ」とかなんとか思ったんです。流行の最先端です。さあ皆さん、ご一緒にご唱和ください。
「技をしかける」「応じる」「気を合わせる」ことよりも、無心になることであると言うのが『猫の妙術』を読んだ感想です。
偉そうに書きましたが、内容そのままです。
では無心になったその後、相手に対するには「技」が必要です。「技」に磨きが掛かれば「応じる」ことが出来ます。
こう思うに至ったのは、我ながらそんなに間違ってもいないような気がします。
しかし中学生と稽古をすると、どうしても心が騒ぎますな。
中学生特有の早さで、先に打ち込まれて避けるにしても、先手を取って抑えるならまだしも、ただ竹刀で避けるだけではお互いに得るものがありません。若さゆえの素早い動きで負けるとなると、こちらがいつでも打ちに行くと言う気持ちと共に、力も入ります。いけません。
「力まないようにするにはどうするか?」これについてどうしたものかと思案した結果、もう「無」だと。何もしない。力を入れない。両手ぶらり。両手ブラリからのカウンター。
そう思っても「無」を意識したところで「無を意識して力が入る」ということになります。矢吹丈とかやってる場合ではありません。
では相手の動きに合わせてみるかと試すと、アッサリ間が詰まります。詰まった所でどうするかは、もちろん考えていません。
間を詰められないようにするには「気」で圧する必要があります。
「気」で圧することは「無」であることにはなりません。
全く禅問答ですね。世の中、禅問答で出来ている。
異様な雰囲気をもって対峙する(自分画伯)
「無だ。無であるべきだ」と思っていますが、これ、万人に通用するんですかね。
段審査とかでどうなんでしょうね。
アレコレと試行錯誤するのも剣道の楽しさでもあるので、ひとまず良しとしましょうか。