そこそこ前のことですが、剣道の雑誌を立ち読みしていたら「猫の妙術」とありまして。恥ずかしながら、その存在を知りませんでした。
雑誌を置いて振り向くと、その『猫の妙術』があるじゃありませんか。なんたる偶然。買いました。
猫が語っていますからね。全編にゃあにゃあだけで、雲を掴むような話が次々と。
なんてことはありませんが、哲学であり禅問答でもあるので、新約であっても解釈が難しい。
技でも無く、気でもなく
家に居座った大鼠の退治に困った若武士が、猫に大鼠の退治を頼みます。
大鼠をどう捕まえるか?それぞれ気鋭の猫が御登場。
冴えた技を持つ猫。気で圧する猫。気を合わせて敵意をそぐ猫。
百戦錬磨の猫たちが挑みますが、大鼠を捕まえることができず、返り討ちにあいます。
最後に「武神」と噂の、いかにも仙人といった風情(イメージ)の老猫が現れ、あっさり大鼠を退治します。文字通り歯牙にかけずに、あっさりと。
三匹が手を焼いた大鼠を、武神猫は如何にして退治できたのか?これが猫の妙術です。
武神猫は如何に大鼠を退治したのか。それは邪念を払うことにあるようです。では邪念とは何か?それは道理にあるようです。道理とは何か?
結果、何もしないことも一つの方法なのでは?
試合で勝つためには多彩な技を習得し、気で圧倒し、相手を動かす修練が必要だと感じていますが、武神猫は否定します。多彩な技では無限に対して応じれず、気をもって相手が動じなければ歯が立たない。
自分自身を自分であると認識し、相手を相手であると認識し、自分と相手の間に線を引き、勝ちに「拘った時点で負け」との由。「道理」を見つけて「妄想」から覚めろと。
己を己と思わず他者を他者と思わず、何も考えず、拘らず。
となると、以前「無になって何もしないし考えない」稽古を実施しましたが、そういう試みも一つの方法であって、あながち間違いではないような!?
勝つための技ではなく
剣道で勝つにしろ昇段するにしろ、技は一つよりも、返し技を含めて身に付けた方が良いと考えておりました。しかし、目的をもった技の習得は「技の表面」だけであり、その先の「道理」が無いと武神猫は説きます。
道理とは何ぞやについては理解できそうにありませんが、まずは単純に面に立ち返ることにします。
勝つための面ではなく『打てる面』を身に付けようかと。『打てる面』とは何ぞや…?
と言うのは、またいつか。…あるのか?
過去に色々とアホな内容を書いてきましたが、結果「無心」と「面」。
これで行きますよ。
実家の猫は何も出来ない…(自分画伯)
『猫の妙術』ですが「浩然の気」を養うためのヒントや、解説では木鶏の語源など、恥ずかしながら知らないことが多数。禅に通じている内容なので、日常生活のヒントにもなりそうです。
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時に「上善如水」の意味を知りませんでした。日本酒だと単純に思った、自分が無知すぎて慄きます。座右の銘にしようかな。