マークボランのゆーことにゃ
アリゾナ砂漠に住むピエロ
高い塔のその上で 世界を壊せと電波を送るよ
道徳って大事だよな。と思う。いま時分、道徳は時代遅れなのだろうか。
『〇〇をぶっ壊す』というのは、個人の価値観はもちろん、道徳的な何かもお構いなく壊すということなのではなかろうか。この間からちょいちょいSNSで流れてくるN国党立花氏、ホリエモン氏を見ていると、そう感じる。
特に立花氏の都知事選の選挙ポスターの掲示板の件や兵庫県知事選の件は、ルールにないならやっても良いと思ったのではないかと勘繰る。そうだとして、果たしてどうなんだ。あるいは、過去に誰かが同じようなことをやったのかも知れない。それがあったとしてもここまで認知されなかったのは、SNSが発達していなかったからかもしれない。あるいは、その時は全く相手にされなかったのかも知れない。
いまの時代は相手にされる。世間がざわめく。
枠に捉われない自由な発想があればこそ傑物が生まれ、技術の発展があり、世の中は豊かになってきたという理屈は分かる。かつてのホリエモン氏もその一人。その枠に捉われない自由な発想は、いままでの道徳観にも捉われないことでもある。それが突き抜けると社会問題化の様相を呈してくる。犯罪めいたことも起こる。故に細かいルールが増える。
上述の二人を見ていると、なんだか道徳的に許容されるかされないか、ギリギリの所で試されているような気がする。特に立花氏。
立花氏やホリエモン氏は、彼らの思う範囲で発言をし、それが広い範囲で刺さることもあれば、狭い範囲だけで爆ぜるだけで多くから眉をひそめられることもある。そこに正義も悪も無い。人間同士の道徳も無い。社会に対する配慮も無い。文化、背景も関係ない。壊すとはそういうこと。彼らの思うことの何に共感できるか、できないか。伸るか反るか。
これからは概ね共有していた道徳的な何かというのは廃れるのだろうことは、転売屋、メルカリでの詐欺的取引などから明確だし、多様性も然り。共有していた道徳観、文化、社会的な背景もろとも躊躇なく壊せる人が強くなる。空気を極端に読まない人も、あるいはそうかも知れない。なれば、自分の軸、信念が重要になるんだろう。きっと。道徳教育をガッチリ受けてきた私には、果たしてこれからの波に乗れるだろうか。乗れなければ老害となるのだろう。歴史は繰り返す。
冒頭の『世界を壊せと電波を送る』ピエロ。80年代は『アリゾナタワーで独りぼっち』でした。いまは独りぼっちではないような気がします。
実際には、マーク・ボランはそんなこと言ってません。…多分。(自分画伯)