京橋、八丁堀、日本橋、茅場町と歩いてきて、私は途方に暮れていた。
無類のうどん好きを自認する私は、気に入りのうどん屋が休みであったため、すっかり昼食の当てを失ってしまっていたのである。
うどんとなれば何でも美味いが、関東でもうどんと言えば讃岐うどんに席巻されて久しい。
投手に例えると、讃岐うどんが本格右腕の速球派としたら、稲庭うどんは左の軟投派。
水沢うどんはセットアッパー。
きしめんは難癖のアンダースロー。
五島うどんがクローザー。
あのふにゃふにゃしたのは何だっけ?
ああ、伊勢うどんだ。
あれは外国人助っ人的な感じがする。
うどんなのに外国人とはなぁ。
逆にごりごりの武蔵野うどんはどうだろう?
一軍と二軍を行ったり来たりで、かつての澤村のような…
そこまで想像を膨らませていたところに、私の視線が良い塩梅にくたびれた暖簾のある店を捉える。
蕎麦屋か…。
場所は茅場町から歩いて堀留町である。
堀留町で蕎麦。
そしてこの店構え。
江戸っ子的な趣があるが、残念な事に私はその粋が無い。
しかしいい加減、歩き疲れてもいる。
入ろうか迷っている所に、男が一人、店から出ていく。
出たという事は一人分は空いているに違いない。
意を決して暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
店内はカウンター席のみ、詰めに詰めて12席ほどであろうか。
店構えの割に店内は明るく、清潔である。
客は無言のまま、ただ蕎麦を啜っている。
先に出た男が座っていたであろう椅子に、私は座る。
……違和感。
普段あるものが、ここには無い。
そう、品書きが無いのである。
隣を見ても、店内を見ても見当たらない。
全てが時価?まさか。
あまりにも不相応な店に入ってしまったのだろうか。
蕎麦屋というに相応しい店構えである(自分画伯)
「ごちそうさん。置いていくよ」
男が一人、500円玉をカウンターに置いていく。
「毎度どうも」
店主が応じる。
500円…そんなに安いのか?
慣れた感じを見るに、常連客の裏メニューか?
隠しきれない動揺を持って店内を見回し、ヒントを探る。
「お待ちどう」
そんな私にお構いなしに、目の前に盛り蕎麦が置かれた。
なるほど。
私は一人、合点する。
盛り蕎麦しか出さない店か。
それで500円。
今日日、蕎麦も500円じゃ名代富士そば界隈でしか目にしない。
やるじゃないか。
割りばしを取っていざという時に、また違和感を感じる。
蕎麦猪口には蕎麦汁が無い。
水が入っているだけである。
いや…と私は思う。
そもそもこれは、水なのか?
「あの…すみません」
「はい、なんでしょう」
意外に主は気さくである。
「汁が…ないようですが」
主はやや鼻を鳴らす。
「お客さん、うちは『水蕎麦』って言ってね。水につけて食べて貰うんですよ」
そんな事も知らないで来たのか…。
その空気。
言葉は無くとも、察する力は人にある。
「はあ…なるほど」
蕎麦の美味い不味いは分からないが、水で食わせるからには名店かも知れない。
気持ちを新たにしたところに、初老の男が勢いよく店に入る。
「いらっしゃい」
主はここでも気さくである。
「おう、蕎麦を一つな」
私は蕎麦を一口啜る。
うん、うん。
と思うが二の句は無い。
蕎麦通には美味いのだろう。
間もなくして、初老の男の前にも蕎麦と、例の水の入った蕎麦猪口が置かれる。
初老の男が店主に言う。
「おう、親父。汁がねえじゃねえか」
主は鼻を鳴らす。
「うちは『水蕎麦』って言ってね。水につけて食べて貰うんですよ」
「なんだ?蕎麦って言ったらな、真っ黒の汁があってのもんよ。ええ?蕎麦をつゆにちょいと浸けて、こうツルツルってやるのが江戸っ子よ。それじゃなきゃ嘘だぜ。水だかなんだか知らねぇけんど、何でも良いから汁持ってきなよ。なんなら醤油だってかまんねえんだから。黒けりゃ。」
主が気色ばむ。
「食えねえって言うなら無理にとは言いませんぜ」
「なんだと?やるってんのか、こんちきしょう」
「客がやるってんならおあつらえよ。殴ってみやがれ。こんこんちきめ」
「なんだとぉ。殴れと言われて殴らない法はないわな。」
「やるかぁ?」
「やらいでか」
店内は大混乱である。
器は割れる。
寸胴は転がる。
笊が飛び交い蕎麦粉が舞う。
遂に二人は取っ組み合い、グルグル回り出す。
グルグルグルグルグルグルグルグル‥‥
グルグルグルグルグルグルグルグル‥‥
グルグルグルグルグルグルグルグル‥‥
いつしか二人の姿は大量の蕎麦粉になっていた。
私は蕎麦粉を近くにあった麻袋に入れて、500円玉を置いて店を出る。
私はその足でフランス人の愛人宅に行く。
そこで美味しい蕎麦粉クレープを作って、二人で仲良く食べたとさ。
おしまい。
名作でございますな(自分画伯)
※言わずもがなフィクションです。