久し振りに稽古に行きました。
二ヶ月振りでしょうか…
休むのは罪と言う時代に生きてきた中にあっては、大人になってもその感覚が抜けません。
来年は三段も控えているので、マメに出席することを目標としたいです。
そしてもう一点、今更ですが『礼に始まり礼で終わる』と言う精神の『礼』を意識したいと思います。
精神的な修行をする・・・と言うと大袈裟ですが、ずっとモヤモヤしていた事の一つの答えが『礼』にあるのかと思いまして。
剣道=精神鍛錬と言うイメージは広くあるかと思います。
過去、フェンシングをやっていた時も「マスクは容易に外してはいけない」と言う剣道の流れを汲むルールがありました。
西洋文化なのに。
キツイ稽古も然りです。
子供の頃、手荒な稽古を経験された方も多いと思います。
小学生相手に容赦なく突きを放つ機動隊員
小学生相手にかちあげる様に体当たりして倒し、容赦なく竹刀を打ち下ろす機動隊員
掛り手の動きが鈍いと壁に投げ飛ばす機動隊
全部同じ方です(笑)
当然、いまの子供たちにはこんな手荒な事はしません。
何故か?昔は良くて、いまはダメ。何故か?
精神修行と言えるのか?
であれば、わざわざ剣道で無くても良いのでは?
剣道での体罰は、ある程度は容認されて良いのでは?
剣道って一体何だ?
と言うような事をずっと考えていました。
過去、経験した稽古を否定すると、いままでの自分を全否定するような気がしていたからです。
長蛇の列に並んでやっと食べたラーメンを不味いと思いたくないような・・・違うか(笑)
ちょっと前ですが、浅田次郎の著作を読んだときに、主人公が年配者に『五常の「礼」の意味が分からない』と言うような事を尋ねます。
五常に礼があって、法が無いのは何故かと。
年配者の解は『孔子の生きた時代に「法」は無かった。「礼」がその代わりとなって一人一人が自ら律した。人間が堕落して「礼」が廃れたから「法」が出来た』
主人公は目から鱗が落ちたとなりますが、私もそうでした。
五常は袴の襞にあります。
「打って反省、打たれて感謝」と言う奇特な教えは剣道独特かと思います。
試合で勝っても雄叫びを上げず、ヤジを飛ばさず、応援は拍手のみと言う姿勢は、もはや剣道だけではないでしょうか。
これらは礼を以て挑めばこそ、その姿勢を貫けるのかなと。
であれば、無駄に手荒な稽古はせずとも良く、どの相手にも礼を以て挑んでいれば、体罰も不要なわけです。
礼節を重んじる事が、自分にとっての厳しい稽古なのかなと。
自分なりの答えではありますが、モヤモヤした気持ちが晴れました。
同時に、いままで何も考えずに剣道やって来たんだなと、改めて思いました(笑)
礼を以て自分を律する事を信念に、剣道のみならず実生活にも挑みたいと思います。・・・試みたいと思います。
無駄に手荒な稽古は嫌でしたが、元立ちの先生から「ほれほれ」「遅い遅い」「もういっちょ!それそれ!」と振り回されるのは、追い掛けっこ的で嫌いではありませんでした。
壁に投げられた時は、わざとぶつかりに行って反動で戻るとか、一瞬、壁にもたれて休憩するとか。
あるあるの方も多いかと。
やはり自分にとっての剣道は剣の道よりMの道
その点はだいぶ鍛えられた気はします・・・無駄に。
文字だけなので、大佐召喚
「まだ終わらんよ」とか
振り回されても、表情変えず言ってのけたいですね。